わくわくしながら、その日を待ったわ。
セピア色だった女子高の日常が、鮮やかな色に輝き出した。
で、ある週末の放課後。
川上先生の様子に異変を感じた。
わたしは、折りたたみの手鏡を机に置いて、ずっと先生を観察してたの。
だから、小さな変化も見逃さなかった。
それほど忙しい時期でもないのに、居残ってるし……。
と言って、仕事をしてるふうでも無い。
ノートパソコンに向かいながらも、心ここにあらずって感じね。
何かあるって思ったわ。
外が暗くなりかけたころ……。
川上先生がパソを落とし、起ちあがった。
まばらに残る同僚に、『お先に』の言葉を残して扉を出てった。
先生の足音が聞こえなくなるまで待ち、わたしも席を立った。
廊下に出ると、もう先生の姿は見えなかった。
もし、わたしの思い違いで、先生が真っ直ぐに帰ったんなら……。
それはそれで仕方ない。
次の機会を待てばいい。
わたしは、躊躇なく塔に向かった。
曲がり角ごとに、そっと覗くんだけど……。
先生の姿は見えない。
やっぱり今日は外れかと思いつつ、最後の角から顔を覗かせたら……。
遠い扉の前に、背中が見えた。
見間違えようのない、白いブラウス。
わたしは、慌てて顔を引っこめた。
振り向かれたらヤバいもんね。
遠くで扉の閉まる音を確かめ、扉に続く廊下に踏み出した。
もう、そこには誰の姿も無かった。
でも、さっきの背中が、扉の向こうに消えたことは間違いない。
その扉のほかに、行き場は無いんだから。
わたしは、足音を殺しながら、扉に駆け寄った。
なんだか、身体がフワフワと軽くて、宙を飛んでるように思えた。
夢の中にいるみたい。
扉の前で立ち止まって初めて……。
自分の心臓が、早鐘みたいに鳴ってるのがわかった。
2,3度深呼吸して、ノブに手を掛ける。
開かない。
やっぱり、向こうからロックしたのね。
もちろん、これは想定内。
わたしは、ポケットから合鍵を取り出し、ノブの鍵穴に挿しこんだ。
指に伝わる手応えを感じながら、鍵を回す。
くぐもった金属音を響かせて、鍵は180度回った。
でも、なかなか扉を開く勇気が出ない。
この扉を入ったら、もう後戻りできない。
そんな気がしたの。
だけど、そのまま引き返す気なんて、もちろん無かった。
気づくと、握ったノブが、わたしの手の温度と同じになってた。
校舎の外で、カラスが鳴いた。
わたしには、それが合図だった。
ドアノブを回し、押し開く。
考えてみれば……。
塔に入ったのは、竣工パーティ以来かも。
建築中は、毎日のように通ってたのにね。
でも、目の前に開けたホールは、記憶にあるままだった。
まるで、ここだけ時が止まってたみたい。
夕暮れの、がらんと静まり返ったホール。
もちろん、明かりは灯されてない。
ステンドグラスから差しこむ光が、床に綺麗な模様を描いてる。
わたしは、もう一度復唱する。
ここに入ったのは、川上先生を見かけて、不思議に思ったから。
扉には、鍵がかかってなかった。
うなずきながら、扉を振り返る。
でもそれなら……。
わたしがここをロックしたら、ヘンかな?
だけど、開けっ放しにしておくのは、どうしても不安だった。
わたしと同じように、ここに入りこむ人物がいないとも限らない。
背後から、誰かがつけてくる……。
その妄想だけは振り切りたかった。
ラッチを回し、扉をロックする。
無意識にロックしたんだと、自分に言い聞かせながら。
でも、ノブを掴み、開かないことを確認すると……。
逆に、度胸が座った。
この先、鬼が出るか蛇が出るか……。
見届けてやりましょう、ってね。
ホールの空気は、しんと静まり返って、人のいる気配がない。
それなら、川上先生はどこに消えたのか。
2階しか考えられなかった。
わたしは、華奢な階段に向けて歩き出した。
吹き抜けの高いホールに、ヒール音が木霊する。
階段から見下ろす景色は、夢で見た記憶のように綺麗だった。
ステンドグラスを透いた細長い影が、床に幾本も絵画を描いてる。
わたしは思わず立ち止まり、胸ポケットからカメラを取り出した。
川上先生を監視するようになってから、カメラは常時持ち歩くようにしてるの。
どんなネタが撮れるかわからないものね。
カメラを構えると、細い手すりに両腕を載せて固定する。
液晶を覗きながら、ホールの全景を収める。
小さなシャッター音が響いた。
写真を撮るのは、わたしにとって、おまじないのひとつなのよ。
緊張してるときとか、不安になったときに撮るの。
カメラを構えるってのは、そのシーンで第3者になる儀式なわけ。
当事者の立場じゃなくてね。
だから、客観的になれるんじゃないかな。
美里も、大学受験のときとか、やってごらん。
試験場のまわりとか、受験生の表情。
シャッター押さなくても、覗くだけでもいいのよ。
はは。
また、脱線ね。
でも、勉強になったでしょ?
階段を上りきったところで、ホールを背にした。
正面の理事長室まで、綺麗な遠近法で真っ白い廊下が伸びてる。
左右に、いくつかの扉。
川上先生は、そのどれかに入ったに違いない。
廊下を歩き始めると、思いのほか靴音が響いた。
パンプス、脱いじゃおうかと思ったけど……。
そんな姿を見られたら、言い訳のしようが無いし。
懸命に足音を忍ばせて進んだ。
扉の前では足を止め、中の気配を伺った。
でも、何も聞こえない。
気配もしない。
理事長室の扉が、真正面に迫ってくる。
今にもそれが開き……。
わたしを糾弾する指が突きつけられる。
そんな妄想がちらつき始めたころ……。
聞こえた。
声。
女の人の声。
言ってる言葉までは聞き取れなかったけど……。
日常会話じゃないってことは、はっきりとわかった。
粘るような甘ったるいトーンが、ところどころ跳ねあがる。
2種類の声が交差し、重なってる。
わたしは、声の漏れてる扉に擦り寄った。
それがこの、理事会室だった。
この部屋の工事は、途中で放棄されたはず。
立ち会ったわたしは、その経緯を知ってる。
その後、工事が再開された話なんて聞かない。
それならどうして、その部屋から声が聞こえるのか?
逃げ出したい恐怖に、好奇心が勝った。
鍵穴を覗いたけど、何も見えない。
扉に耳を着ける。
声は、部屋の奥からのようだった。
耳を着けても聞き取れない。
ぷつぷつと粒を潰すような響きに、ときどき裏返った高音が伸びあがる。
我慢できず、ドアノブに手を掛けた。
鍵が掛かってなかったことに気づいたのは、扉が開いてからだった。
でも、この事実に、わたしは意を強くした。
だって、ここに鍵が掛かってないってことは……。
塔の入口に鍵を掛けただけで、事足りるってこと。
つまり、塔の中には、この部屋の声の主しかいないってことじゃない?
それなら、背後から誰かが現れる心配は、もうしなくていい。
わたしは、扉の隙間を少しずつ広げていった。
まだ外は暮れ切ってないはずなのに、扉の中は夜のように暗かった。
窓に打ちつけられた横板のせいだってわかったのは、後になってから。
そう言えば、おととしだったかの台風のとき……。
塔の窓を、大急ぎで塞がせたことがあったの。
外から塞ぐのは無理だから、内側から塞いだわけ。
割れたガラスが散乱しないように。
台風のあと、ほかの部屋の板は外されたようだけど……。
ここだけは、そのままにされたみたいね。
ま、倉庫代わりに使うんなら……。
光が入らない方が、収納物が日焼けする心配も無いわけだし。
扉の隙間から、中を伺う。
聞こえる声は、少し大きくなったけど……。
聞き分けるには、まだ遠かった。
声の主は、扉からは離れた位置にいるようだった。
目が慣れると、部屋は真っ暗じゃなくて、遠くから微かな光が差してるのがわかった。
声の主は、きっとその光源付近にいるに違いない。
扉からわたしが入っても、声の主は気づかないだろう。
そう思ったけど、なかなか踏み出せない。
じっと耳を澄ます。
声は、ときおり重なるようだった。
明らかに、2種類。
中にいるのは2人。
2人とも女性であることは間違いない。
ひとりはおそらく、忽然と消えた川上先生。
なら、もう1人は?
好奇心を抑えきれなくなった。
思い切って、扉の隙間を擦り抜ける。
咎められたらどうしようかと思ったけど……。
使われてないはずの部屋で声が聞こえたから入ってみたって、開き直る覚悟だった。
もう、後戻りは出来ない。
ドアは、開けたままにしておくことにした。
閉めるとき音がしそうだったし……。
逃げ道を確保しておくためもあった。
扉に鍵が掛かってなかったんだから、第三者が扉から入ってくる危険も無いだろうし。
ようやく一人歩きを始めた子供みたいに、恐る恐るドアノブから手を離す。
声の聞こえる方へ、身体を向ける。
床材をほんのりと浮かびあがらせる光も、その方向から漏れてるのがわかった。
部屋の奥だった。
でも、人影は見えない。
わたしの視線は、不思議な材質の幕に遮られてた。
声の主は、その幕の向こうにいる。
踏み出そうとする脚が、震えてるのに気づいた。
足音を殺す自信が無かった。
思い切ってパンプスを脱ぐ。
逃げる用心のために、パンプスは手に持った。
もう、言い訳も出来ない格好ね。
ストッキングを滑らせるようにして床を進む。
木製の床は、能舞台を思わせた。
薪の火だけが、舞台を照らす。
一歩踏み出すごとに、鼓の音が聞こえるようだった。
でも、数歩進んだところで、能役者の脚がすくんだ。
幕の向こうから、バイオリンの弦を引くような高音が伸びてきた。
わたしのすぐ脇をすり抜けてった声は、日常会話では有り得ない音色だった。
その高音に、粘り気を帯びた声が重なる。
引き伸ばした飴に、濃厚なシロップが絡むみたい。
ようやく確信した。
2つの声は、明らかに睦言だ。
下腹が痛くなった。
膝が震える。
幕が降りたまま、舞台ではとんでもない劇が演じられてるに違いない。
ようやく幕までたどり着いた。
不思議な材質に見えた幕が、ブルーシートだってわかったのもこのとき。
そこまで近づくと、声ははっきりと聞こえた。
でも、声はもう、意味のある言葉を発してなかった。
明らかに、佳境に入った声。
シートの裾からは、光が漏れてる。
光源に照らされた舞台を、早く見たかった。
わたしは、ブルーシートを見回し、覗ける場所が無いか探した。
シートは、中央部で重なってた。
そこを開けば見えるだろうけど、幕の真ん中から顔を出すわけにはいかない。
わたしは、下手に回った。
壁面に、光が漏れてる。
幕の側面が、壁に沿って揺らいでる。
そのあたりは光源から遠いようで、漏れる光も弱かった。
ここから覗けば、中の2人には気付かれないはず。
でも、高い位置からシートを捲るのは憚られた。
わたしは、その場にひざまずいた。
シートの側面に手を掛ける。
わたしの手が触れると、シートが震えた。
もちろん、わたしの指が震えてたから。
僅かにシートを開くと、黄色い光が、スカートに差した。
その状態で、声に耳を澄ます。
気取られてないことを確信すると、少しずつシートを捲ってく。
身を壁に目一杯寄せ、頬を壁に着けながら、隙間に顔を差し入れた。
光源を、右頬に感じた。
光に視線を向ける。
そこには、裸電球の光源と……。
2つの声の音源があった。
本作品のモデルの掲載原稿は以下にて公開中です。
「川上ゆう」 「結」 「岩城あけみ」
《説明》
杉浦則夫の作品からインスピレーションされ作られた文章作品で、長編連載小説のご投稿がありました。(投稿者 Mikiko様)
本作品は毎週日曜日に公開される予定となっておりますので、どうぞお楽しみに。
前作を凌ぐ淫靡と過酷な百合緊縛!「川上ゆう」さん、「YUI」さん登場予定作品です。
時を越え、再び出会った美里とあけみ。現在に戻った美里は、さらなる花虐へと誘われていく…。