緊縛桟敷セレクション

この度、緊縛桟敷キネマ館にて、
緊縛桟敷セレクション※4人が新規発売開始になりました。

※緊縛桟敷セレクションとは月額会員サイト杉浦則夫緊縛桟敷にて、
掲載された写真を半数に厳選してモデル別に販売しているコンテンツです。

モデル名は、「川上ゆう」※「浅葱アゲハ」「晶エリー」「美希」の四人です。
※現在川上ゆうさんの最新画像が杉浦則夫緊縛桟敷内で掲載されています!

杉浦則夫緊縛桟敷

下記画像をクリックすると、キネマ館の各モデル詳細ページが開きます。


今回のタイトルは、どのモデルさんも非常に質が高いので、
皆様どうぞ、緊縛画像を心行くまでご堪能下さい。

以上、どうぞよろしくお願い致します。

コラム「女教師 川上ゆう」中

杉浦則夫緊縛桟敷で現在掲載されている川上ゆうさんを題材に書き下ろして頂いているコラムを掲載致します。本作品は、上中下の三部作となっております。

私はこれを見ると、思わず手を拍って悦びました。男というものは、溜まった白濁を放精してしばらく、聖人に成れると申します。ならば、この美女にすがりついて、飽きるほど昇天すれば、きっと緊縛地獄からぬけ出し、現世へと転生出来るに相違ございません。そうすれば、もう世間様になんの後ろめたい事もなくなれば、愛するがゆえに、女を縛り上げ責め苦を与えねば収まらない心痛からも解放されるやもしれません。

こう思いましたからには、早速その麻縄で吊られた川上ゆうさんの御姿を両眼にしっかりと焼き付けながら、その息使いや体温、匂いまで感じ取ろうと集中し始めました。もとより現世では、光の届かぬ場所に長く居りましたもので、想像力だけは鍛錬されているのでございます。

しかし、加虐性愛者と正常者との間は、理解を超える距離がございますから、少年の日へ還って女教師が吊られた教室に入り込み、いくら昇天を繰り返したところで、なかなか正常者にはなれません。ややしばらく昇る中に、とうとう私もくたびれて、もう一擦りも出来なくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まずは一休み休むつもりで天上から吊られたゆうさんに摑まりながら、遥かに目の下を見下しました。

何度も昇った甲斐もあり、さっきまで自分がいた緊縛地獄は今では意識の奥に、ぼんやりとかすみ始めて居ります。それからあのぼんやり光っている恐ろしい熱蝋地獄も、汚臭を放つ浣腸地獄も足の下になってしまいました。この分で昇って逝けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。私は、左手で女教師にしがみつき、右手で己の一物を弄りながら、ここへ来てからはじめての快感に酔いしれるのでした。ところがふと気がつきますと、麻縄の下の方には、やはり川上ゆうさんを恋い慕う男たちが、彼女を目指して、一心不乱に、やはりしこしこと懸命によじ昇ってくるではございませんか。

私はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、阿呆のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断たれそうな、ましてすでに女教師を吊っている麻縄が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断たれたと致しましたら、折角ここへまで昇ってきた私自身も、元の地獄へ逆さまに堕ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、男たちは何百となく何千となく、仄暗い地獄の底から、うようよと這い上がって、鈍く光る麻縄を、一列になりながら、せっせと昇って参ります。今の中にどうかしなければ、縄はまん中から二つに断れて、堕ちてしまうのに違いありません。そこで私は大きな声を出して、「この女教師は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、昇って来た。下りろ。たのむから下りてくれ。」と喚きました。

本作品で使用されている画像の掲載場所
緊縛桟敷キネマ館

コラム「女教師 川上ゆう」上

杉浦則夫緊縛桟敷で今週掲載されている川上ゆうさんを題材に書き下ろして頂いているコラムを掲載致します。本作品は、上中下の三部作となっております。

膣に放たれた無数の精子達。先を争い、他者を押しのけ、彼女と一つになれる場所へと急ぐ。しかし無残にも、溢れ出した酸の海で、その十のうち九つが殺されてしまうのだった。
生き残った、わずか一つ。天上の子宮頚管より粘液が分泌され、子宮内へと吸い上げられる。
細くキラキラとした糸引く粘液をつたい、上へ上へと昇っていく。転生の為に。


【蜘蛛の糸】

現世を“この世”とするならば、これは“あの世”のお話でございます。

こちらはずっと緊縛地獄の底で、大勢の加虐性愛の男たちに混じりながらも会話する事も無く、一人きり、悩んだり苦しんだりしていた気がいたします。何しろ親兄弟にも、友達にも、先生にも、誰に相談も出来ません。「地獄」と申しましたのも、時折、出所の知れぬ背徳感や罪悪感が渾然と押し寄せまして、まさに地獄に堕ちた罪人の心境と同じかと思われたからでございます。

周りの男たちにしても、この場所へ辿り着くくらいでございます。緊縛地獄ばかりではございません。熱蝋地獄に浣腸地獄、鞭打ち地獄や針地獄など、もうさまざまな地獄の責苦に泣き叫ぶ女を見慣れているはずですが、現世では「変態」と罵る声ばかりでございましたから、こちらに参りましても、おそらく己の不可思議な性癖の苦しさに疲れはてて、ただただ心の中を内省する日々なのでしょう。たまに聞こえてくるのは微かなため息ばかり、その切なさと云ったらございません。ですから私も、緊縛地獄の絶景に魅入りながらも、このままであるべきか、それとも改心すべきであるべきか、ただただ思案ばかりして過ごしていたのです。

ある時の事でございます。何気なく私が、少年時代の思い出に浸って居りますと、かつて通った教室の中に美しい女教師を見つけました。教室の天上から、一本の麻縄が黄金色に光りながら、ギリギリと川上ゆうさんを縛り、吊り下げているではございませんか。

「川上ゆう」と言えば、当代一の人気女優でございます。御姿の美しさは、今更私があれこれ語るまでもございますまい。長い年月第一線で、そして様々に細かい性の嗜好に応える彼女は、無数の男たちの想いを一身に受けて居ります。間違いなく“記憶に残る”女優として、いつまでも語り継がれる事でしょう。

本作品で使用されている画像の掲載場所
緊縛桟敷キネマ館

川上ゆう

本サイトの出演は最多で、その人気もだんとつのトップである。人気の裏には川上の努力と変態嗜好にある、緊縛が心地いいものと知ってから4年猶予のあいだに体で覚えた感覚を毎回深めている。
その過去には文字道理傷だらけで危険な過去も通過している。高て小手責めで左腕の神経を切り運動麻痺、首縄締め責めでの窒息寸前で死斑らしきものをつくったり、足先から頭までの拘束に呼吸困難をきたした恐怖、数えれば毎回がこんな挑戦的な態度で楽しみを深めているのだろう。
初めの頃は大勢のスタッフの前で隠れた本心を曝け出す視姦的な快楽であったはずのものが、今は長時間の逆さ吊りなどで頭の思考の感覚が消え、真っ白い世界を招くうちにある時間、そこからゆっくりと覚醒してくるあいだの感覚が現実にはない感覚で気持ちいいという。
経験者にない私にとっては失神時の暗黒の世界からたちかえった五感のめばえにちかい再生と置き換えて理解におよぶしかない。

今回の掲載は三和出版発行の「川上ゆう写真集2」(仮題)4月中旬発売との合同撮影を2日にわたって撮影した、写真に関しては桟敷が先行掲載であり、三和出版の内容にはVTRに江戸刑罰の責めを主体に構成されている、まだ編集されたものは見ていないが撮影時の現場での感想はいいものであった。緊縛桟敷キネマ館で掲載のVTRは川上ゆうの緊縛時の心のうちを撮る試みをしている。

さて本文に戻ります、撮影当日は大変寒い日でした、大勢のいる部屋の窓を二重に閉め暖房を極度にきかせた部屋の空気はまたたくまに汚れ希薄になる、こんな環境ではまず最初に倒れるのはモデルさんである。撮影中場に柱に縛られたゆうの顔から血の気がひいた、スタッフが慌てて中止を叫んだが、私はそれを制して撮影を続けた、力の抜けたゆうの姿があまりにも艶かしく美しいのだ、肌は透明でさえある、視点を失い浄化された顔、まさに緊縛写真のテーマがそこにあった、過酷ではあったがゆうならば許すはずだ。
石抱きの刑罰、鋭角に三角に刻まれた波打つ板の上に数分正座することは自信の体重で脛の骨に激痛がおこり耐え得るものではない。が、ゆうはその上に三枚の石を抱き耐えた、泣いた、しかしゆうにとってそれも自分への挑戦であろうし納得のある姿を読者に見ていただくための姿勢だ。駿河問い責め、ここでも石責めに挑む。この撮影を終えて全てを出し切った清々しさを味わう。

杉浦則夫緊縛桟敷 より原稿掲載
緊縛桟敷キネマ館 にて発売中

コラム「溶解 後編」

縛るという行為は、官能に溶解していく己と他者との境界を、辛うじて保つ機能があるように私には見える。性的快楽を媒介にして融合しようとする精神を、あえて現実に留め置く。
それでもなお、縄目より染み出し、心が一つになる事が出来たならば、二人は、より強固で分かち難い愛を手に入れたと言えるのである。
まさに、それ自体が苦行と言えよう。緊縛プレイは一見、縛る者がサド、縛られる者がマゾと記号化されているが、しばしば、「両者ともマゾ」といった解釈が成り立つのは、この為ではなかろうか。

俯瞰して見る。
実は、緊縛自体が充分に背徳的であり、その魅力の虜となった者達は、精神内部、とりわけ宗教的な価値観に置いての“善”“悪”、その境界が最初から溶解した状態にある。

さらに俯瞰して見る。
すでに特異な嗜好の区分けが液状化した事で、大衆化が加速している。その“恩恵”は、緊縛にだけに止まらず、それまで「変態」と蔑まれた全ての分野に及ぶ。
「変態」に対する背徳心や羞恥心が溶解した現代。どれほど他者には理解しがたい嗜好であろうと、擬似的なものであれば、ほぼ制限無くその快楽を手に出来る。

結果、その幻影の中で官能自体が一種の不感症、麻痺状態にあるのではないか。エロティシズムによる心の溶解は、その副次的効果として個々の抱く官能基準すら曖昧にしてしまったと言えよう。
少し前までは、正常と異常の境界が明確に在り、自己の異常性をハッキリと知覚出来た。
それが、どうだ。
今や天地無く、心の形を知る手がかりが「快感の記憶」以外見当たらない。相対的基準を失った、かつてのエロ青年、エロ少年が、今昔の作品の対比に置いて過去作品に軍配を上げる姿は、無限の抽象世界に漂う不安を、闇雲に訴えているようにも映る。「自らが強く望んでいた状況」、であるにも関わらず、だ。

さて、エロと同様、精神を溶解させるものに「音楽」がある。

声を合わせ、作者の想いをなぞりその情景に同化する陶酔感。ライブ会場での、ビートに肉体を委ねる抽象的な快楽と、その一体感に伴う高揚は、やはり心の壁を溶解するのだ。その様は、SEXに興じる姿と重なる。音楽もやはり官能に近いところに存在すると言って良いだろう。

9.11テロをきっかけに、アメリカではジョンレノンのイマジンが放送自粛された。
理由は、「想像してごらん 国境の無い世界を」がナショナリズム高揚に水を差すとの判断があったとされる。またその後の、キリスト教とイスラム教の宗教戦争とも言われたイラク戦争にあって、冒頭の「想像してごらん 天国のない世界を」一節が、キリスト教を否定していると受け取る向きもあったようだ。
いずれにせよ。この曲が言っている事は、宗教も含めた統治のシステムを維持する為に、これまで何千年とかけてでっち上げてきた、あらゆる境界の溶解である。だが実は、そのようなものは最初から存在しないのだ。その事に人々が気づくことは、戦争好きの支配者にとって誠に不都合であったに違いない。

かつて、音楽で世界を変えようとした者たち。彼らも心の溶解を以って、既存社会の変革を目指したのではなかったか。しかしそれは、体制そのものと言っても良い巨大な商業主義に飲み込まれ、同化した事で挫折した。同時に、普遍的に純化した真実の在処、イデア界への扉は閉ざされたのである。今後も、彼らがイデアの眩い光を見ることは無いだろう。

そして同時代。日のあたる場所で若者たちが「Love&Peace」を叫んでいた陰で、世の中にエロを発信し続けた先人たちもまた、ほぼ確信的に、同様のカオスを夢想したのではなかったか。

より強力な溶解作用を持つエロティシズム。それをビジネスとしたポルノ産業は、少なくとも明治以降の日本に置いて、弾圧・排除の対象であった。逆説的な意味で、これもまた支配の一形態と言って良い。
しかし、それでも。
エロはいかなる制約もすり抜け、触れたものの心を容赦なく溶解させる。それには、支配行使のメカニズムも当然含まれる。ゆえに、為政者はエロを恐れ、規制に躍起となるのだ。

溶解という現象から垣間見えるのは、イデアへと帰還する精神の成長に他ならない。
諸々を溶解させるエロティシズムは、人類がまだ手にしていない、次代の社会システムの発見を容易にするであろう。だが、現出した世界が理想郷であるかどうかは誰にも分からない。ただ少なくとも、現支配層にとっては、さぞ居心地の悪いものになるだろう事だけは間違いように思われるが。

猥褻物頒布や児童ポルノ法違反といった俗世の見地ではなく、もっと高次において、そういった“危険物”をやり取りしている事の自覚はあるのか。自問の日々である。

これには、送り手受け手の区別は無い。わずかで良いのだ。エロに関わる全ての人々が、その底知れぬ力を意識する時、エロは、本当に地図に引かれた国境をも溶かすのかもしれない。

「想像してごらん 全てが溶け合う世界を」