縛るという行為は、官能に溶解していく己と他者との境界を、辛うじて保つ機能があるように私には見える。性的快楽を媒介にして融合しようとする精神を、あえて現実に留め置く。
それでもなお、縄目より染み出し、心が一つになる事が出来たならば、二人は、より強固で分かち難い愛を手に入れたと言えるのである。
まさに、それ自体が苦行と言えよう。緊縛プレイは一見、縛る者がサド、縛られる者がマゾと記号化されているが、しばしば、「両者ともマゾ」といった解釈が成り立つのは、この為ではなかろうか。
俯瞰して見る。
実は、緊縛自体が充分に背徳的であり、その魅力の虜となった者達は、精神内部、とりわけ宗教的な価値観に置いての“善”“悪”、その境界が最初から溶解した状態にある。
さらに俯瞰して見る。
すでに特異な嗜好の区分けが液状化した事で、大衆化が加速している。その“恩恵”は、緊縛にだけに止まらず、それまで「変態」と蔑まれた全ての分野に及ぶ。
「変態」に対する背徳心や羞恥心が溶解した現代。どれほど他者には理解しがたい嗜好であろうと、擬似的なものであれば、ほぼ制限無くその快楽を手に出来る。
結果、その幻影の中で官能自体が一種の不感症、麻痺状態にあるのではないか。エロティシズムによる心の溶解は、その副次的効果として個々の抱く官能基準すら曖昧にしてしまったと言えよう。
少し前までは、正常と異常の境界が明確に在り、自己の異常性をハッキリと知覚出来た。
それが、どうだ。
今や天地無く、心の形を知る手がかりが「快感の記憶」以外見当たらない。相対的基準を失った、かつてのエロ青年、エロ少年が、今昔の作品の対比に置いて過去作品に軍配を上げる姿は、無限の抽象世界に漂う不安を、闇雲に訴えているようにも映る。「自らが強く望んでいた状況」、であるにも関わらず、だ。
さて、エロと同様、精神を溶解させるものに「音楽」がある。
声を合わせ、作者の想いをなぞりその情景に同化する陶酔感。ライブ会場での、ビートに肉体を委ねる抽象的な快楽と、その一体感に伴う高揚は、やはり心の壁を溶解するのだ。その様は、SEXに興じる姿と重なる。音楽もやはり官能に近いところに存在すると言って良いだろう。
9.11テロをきっかけに、アメリカではジョンレノンのイマジンが放送自粛された。
理由は、「想像してごらん 国境の無い世界を」がナショナリズム高揚に水を差すとの判断があったとされる。またその後の、キリスト教とイスラム教の宗教戦争とも言われたイラク戦争にあって、冒頭の「想像してごらん 天国のない世界を」一節が、キリスト教を否定していると受け取る向きもあったようだ。
いずれにせよ。この曲が言っている事は、宗教も含めた統治のシステムを維持する為に、これまで何千年とかけてでっち上げてきた、あらゆる境界の溶解である。だが実は、そのようなものは最初から存在しないのだ。その事に人々が気づくことは、戦争好きの支配者にとって誠に不都合であったに違いない。
かつて、音楽で世界を変えようとした者たち。彼らも心の溶解を以って、既存社会の変革を目指したのではなかったか。しかしそれは、体制そのものと言っても良い巨大な商業主義に飲み込まれ、同化した事で挫折した。同時に、普遍的に純化した真実の在処、イデア界への扉は閉ざされたのである。今後も、彼らがイデアの眩い光を見ることは無いだろう。
そして同時代。日のあたる場所で若者たちが「Love&Peace」を叫んでいた陰で、世の中にエロを発信し続けた先人たちもまた、ほぼ確信的に、同様のカオスを夢想したのではなかったか。
より強力な溶解作用を持つエロティシズム。それをビジネスとしたポルノ産業は、少なくとも明治以降の日本に置いて、弾圧・排除の対象であった。逆説的な意味で、これもまた支配の一形態と言って良い。
しかし、それでも。
エロはいかなる制約もすり抜け、触れたものの心を容赦なく溶解させる。それには、支配行使のメカニズムも当然含まれる。ゆえに、為政者はエロを恐れ、規制に躍起となるのだ。
溶解という現象から垣間見えるのは、イデアへと帰還する精神の成長に他ならない。
諸々を溶解させるエロティシズムは、人類がまだ手にしていない、次代の社会システムの発見を容易にするであろう。だが、現出した世界が理想郷であるかどうかは誰にも分からない。ただ少なくとも、現支配層にとっては、さぞ居心地の悪いものになるだろう事だけは間違いように思われるが。
猥褻物頒布や児童ポルノ法違反といった俗世の見地ではなく、もっと高次において、そういった“危険物”をやり取りしている事の自覚はあるのか。自問の日々である。
これには、送り手受け手の区別は無い。わずかで良いのだ。エロに関わる全ての人々が、その底知れぬ力を意識する時、エロは、本当に地図に引かれた国境をも溶かすのかもしれない。
「想像してごらん 全てが溶け合う世界を」