コラム「女教師 小野亜美」中

【専制(センセイ)支配】

さて「大貧民」を、教室に当てはめてみる。
主な階級は、「担任女教師」「学級委員」「虐めっ子」「優等生」「人気者」「普通」「落ちこぼれ」「虐められっ子」「不良生徒」といったところだろうか。

「担任女教師」は、教室という密室空間の絶対的支配者であり、生徒の数に影響される事無く常に最上位である。場合によっては、プレーヤーの序列すら意のままにコントロール出来る。「学級委員」以下の生徒たちは、「担任女教師」を選んだり拒絶することは許されない。理不尽に割り振られた環境でも、そのルールには無条件で従う事が要求される。

知恵もつけ、腕力も大人と並びだすハイティーン以降はともかく、まだ、何の反抗する手段を持たない時期、初等教育段階での、担任女教師に対するある種の畏怖の念は、大なり小なり、皆が抱いたのではないか。昨今は、先生達も随分と俗物に成り下がってしまったようだが、“教師”という職業が、まだ聖職であった頃はなおさらだ。

だから、学校教育において教わる「民主主義的なるモノ」は、肝心の教室には存在しない。あるのは、逃げ道の無い専制支配のみである。担任女教師は、絶対的な権力者となり、まだ未熟である我々、生徒たちを指導して下さるのだ。

支配者に求めるには酷な事かもしれない。「担任女教師」には、教育の理想に燃えていて欲しい。精錬潔癖であって欲しい。聡明な女教師自身が、専制的指導に疑問を感じないのは、体制維持の為に彼女も洗脳されているに他ならないなのだが、それが独善的かつ強権的であればあるほど、「革命」物語は爽快なものとなる。それは射精時の快感と同じだ。
女教師陵辱モノの核心は、まさに高美からの“墜落”“堕落”と言えよう。

よく、犯されヒロインである女教師が、最初から「ショ太喰い」であったり、「痴女」であったりと、わざわざ俗物へと降ろして設定される作品を見かける。「なぜ彼女が犯されるのか?」という、貶める側の動機付けには、たいへん便利な性癖だが、これでは落差を稼げない。観るものが「革命」を共有し、その果実を味わう事が、端から出来ないのだ。
せっかくの女教師モノなのに、わざわざそういった“もったいない”設定の作品に出会うたびに、不満と共に怒りを感じるのは私だけではないはずだ。真面目に女教師モノに向き合うという事は、如何にヒロインを長く高美に保ったまま、辱め続けるか、それと正面から対決する作業と言える。先の安易な設定は、作り手の“手抜き”に他ならない

さて、私の手元に「不良」カードが4枚揃っている。
いつ「革命」を宣言しようか。「担任女教師」を淫獄の底へと引き摺り降ろそうか。

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コラム「女教師 小野亜美」上

【大貧民】

トランプゲームに、「大貧民」というのがある。
簡単に遊び方を説明すると。
プレーヤーは3人以上、5~6人が一般的とされている。手持ちのカードを場に切って行き、早く無くした方が勝ちというもの。カードの数字は、弱い順に3、4、5、…K、A、2が最強、と強弱が有り、当然、手札に強いカードを持つ者が有利なゲーム展開となる。
最初のゲームの勝者が「大富豪」、敗者は「大貧民」と階級分けされ、次のゲームの配札から最上位「大富豪」は好きなカードを、最下位「大貧民」は配札から一番強いカードを2枚交換する。第2位の階級と、最下位から2番目の階級との間でも、カードの交換が行われる事がある。従って、最初に「大富豪」となった勝者が、何ゲームも続けて「大富豪」となり、「大貧民」はいつまでも「大貧民」から抜け出せない。敗者にとっては、まさに無限地獄。近現代の資本主義社会をそのまま持ち込んだ、“良く出来た”ゲームと言えよう。

階級は通常、上から「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」で、人数によって、「平民」を増やすなり、階級を“増設”するなりして調整する。例えば9名で遊ぶ場合、「教皇」「皇帝」「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」「奴隷」「家畜」等。階級が細分化されるのではなく、上はさらに上に、下はさらに下へと格差がどんどん広がっていくのが興味深い。

ゲームである以上、「家畜」が「教皇」へと昇る事は不可能ではないのだが、通常それは、よほどの運に恵まれる必要がある。「家畜」はいつまでも「家畜」であり続け、あるいは「奴隷」と「家畜」の最下層近辺を行き来し続けるわけで、毎ゲーム終わるたびに、上、中位のプレーヤーからの嘲笑や侮蔑の言葉を浴びる羽目になる。そして、それは階層が固定化するほどに、より過激で辛らつなものとなる。“遊び”であるが故に、いつのまにか人格まで否定されるような不条理でサディスティックな色合いを濃くしていくのだ。

そんな、理不尽なルールが支配するゲームであるが、「革命」という救済ルールが存在する。
同じ数字のカードを4枚揃えて出す事で、それまでの、カードの強弱が逆転する。「革命」は、現行ルールで優位にゲームを進めている序列上位のプレーヤーが行う動機が無いので、下位に位置する身分から宣言される事になる。当然、それまでが弱いカードでも、革命後は強くなるカードを残しているわけで、その後の展開は、それ以前とは真逆となる。支配者は瞬く間にゲームに敗北し、奴隷へと転落してしまうのだ。

革命カードが手札にあり、後は仕掛けるタイミングを計るばかりの「奴隷」や「家畜」の密やかな高揚感。そして「革命」が成就し、引き摺り下ろされた旧支配層が、つい先程まで理不尽に奴隷として見下げていた者に支配される痛快感。私はそれらに、女教師陵辱作品に含まれる、他の陵辱作品には無い特異な興奮、それと同質のものを感じるのだ。

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コラム「女教師 川上ゆう」下

杉浦則夫緊縛桟敷で現在掲載されている川上ゆうさんを題材に書き下ろして頂いているコラムを掲載致します。本作品は、上中下の三部作となっております。

それでも男たちは、私の声などまったく聞こえてない風で、ますます早さをまして迫って参ります。私も必死です。ようやく追いつき、ゆうさんにしがみ付こうとする男を引き剥がすのですが、しばらくすると、また別の男が迫り次から次、私は同じ事を繰り返します。一人、また一人と男たちを蹴り落としていくたびに、その分軽くなった私と女教師は、速さを増して上へと昇って逝くのです。ああ、これで地獄とおさらばだ。これで現世に戻れるのだ。私はどんどん気持ち良くなって逝くのでした。ところが、でございます。眼下の地獄が小さくなり、いよいよ蠢く男たちも残りわずかになった辺りで、ふと、ゆうさんを見ると、彼女は今にも泣き出しそうに表情を歪めているのです。

もとより、彼女の美しい瞳は潤みがちでしたし、縄でギリギリと締め上げられた女の苦悶の表情と、快楽に溺れながら絶頂に達した女の表情は同じと申しますので、私は最初ゆうさんが、転生が近づいた事を悦んで感涙しているものだと思って居りました。ところが、彼女にすがろうとする最後の男を、蹴落とした時でございます。ゆうさんは声を抑えながらポロポロと大粒の涙を流しはじめたではありませんか。その時になって、彼女が浮かべていたのは悲しい表情だったのだと、ようやく気が付いたのです。ああ、この御方は私ばかりでない、全ての男たちの為に縛られているのだ。そう思ったのでございます。

そうしますと、私もなんとも悲しい気分になり、同じように涙を流しながら「ごめんなさい。ごめんなさい。」と念仏を唱えるようにつぶやきました。その途端でございます。今まで何ともなかった麻縄が、急に私のぶら下っている処から、ぶつりと音を立てて断れました。私は、今しがた昇って来た空を真っ逆さまに堕ちて逝ったのです。後にはただ現世へと繋がっているはずの麻縄が、ガランとした教室の中途に、女教師を吊るしたまま、ゆらゆらと揺れているのでした。

ああ、またあの居心地の良い処に戻って逝くのだ。地獄と思っていた元の場所こそが天国。そんな事をぼんやりと考えながら、長い長い落下を感じました。そして地べたに激突するほんの直前、私は思い出したのでございます。

ただいま、昇り詰める絶頂の向こうに転生を試みた世界。それは、遠い昔、なんの疑いもなく無邪気に自身の明るい将来を思い描いた世界。暖かい愛情に包まれた幸せな家庭を夢見た世界。悩みも、苦しみも、悲しみも、いつかは喜びに変わるものだと、疑うことなく信じた世界。そして、それら在りもしない幻想を私に錯覚させ続けた世界。

現世こそが地獄。

本作品で使用されている画像の掲載場所
緊縛桟敷キネマ館

コラム「女教師 川上ゆう」中

杉浦則夫緊縛桟敷で現在掲載されている川上ゆうさんを題材に書き下ろして頂いているコラムを掲載致します。本作品は、上中下の三部作となっております。

私はこれを見ると、思わず手を拍って悦びました。男というものは、溜まった白濁を放精してしばらく、聖人に成れると申します。ならば、この美女にすがりついて、飽きるほど昇天すれば、きっと緊縛地獄からぬけ出し、現世へと転生出来るに相違ございません。そうすれば、もう世間様になんの後ろめたい事もなくなれば、愛するがゆえに、女を縛り上げ責め苦を与えねば収まらない心痛からも解放されるやもしれません。

こう思いましたからには、早速その麻縄で吊られた川上ゆうさんの御姿を両眼にしっかりと焼き付けながら、その息使いや体温、匂いまで感じ取ろうと集中し始めました。もとより現世では、光の届かぬ場所に長く居りましたもので、想像力だけは鍛錬されているのでございます。

しかし、加虐性愛者と正常者との間は、理解を超える距離がございますから、少年の日へ還って女教師が吊られた教室に入り込み、いくら昇天を繰り返したところで、なかなか正常者にはなれません。ややしばらく昇る中に、とうとう私もくたびれて、もう一擦りも出来なくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まずは一休み休むつもりで天上から吊られたゆうさんに摑まりながら、遥かに目の下を見下しました。

何度も昇った甲斐もあり、さっきまで自分がいた緊縛地獄は今では意識の奥に、ぼんやりとかすみ始めて居ります。それからあのぼんやり光っている恐ろしい熱蝋地獄も、汚臭を放つ浣腸地獄も足の下になってしまいました。この分で昇って逝けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。私は、左手で女教師にしがみつき、右手で己の一物を弄りながら、ここへ来てからはじめての快感に酔いしれるのでした。ところがふと気がつきますと、麻縄の下の方には、やはり川上ゆうさんを恋い慕う男たちが、彼女を目指して、一心不乱に、やはりしこしこと懸命によじ昇ってくるではございませんか。

私はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、阿呆のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断たれそうな、ましてすでに女教師を吊っている麻縄が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断たれたと致しましたら、折角ここへまで昇ってきた私自身も、元の地獄へ逆さまに堕ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、男たちは何百となく何千となく、仄暗い地獄の底から、うようよと這い上がって、鈍く光る麻縄を、一列になりながら、せっせと昇って参ります。今の中にどうかしなければ、縄はまん中から二つに断れて、堕ちてしまうのに違いありません。そこで私は大きな声を出して、「この女教師は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、昇って来た。下りろ。たのむから下りてくれ。」と喚きました。

本作品で使用されている画像の掲載場所
緊縛桟敷キネマ館

コラム「女教師 川上ゆう」上

杉浦則夫緊縛桟敷で今週掲載されている川上ゆうさんを題材に書き下ろして頂いているコラムを掲載致します。本作品は、上中下の三部作となっております。

膣に放たれた無数の精子達。先を争い、他者を押しのけ、彼女と一つになれる場所へと急ぐ。しかし無残にも、溢れ出した酸の海で、その十のうち九つが殺されてしまうのだった。
生き残った、わずか一つ。天上の子宮頚管より粘液が分泌され、子宮内へと吸い上げられる。
細くキラキラとした糸引く粘液をつたい、上へ上へと昇っていく。転生の為に。


【蜘蛛の糸】

現世を“この世”とするならば、これは“あの世”のお話でございます。

こちらはずっと緊縛地獄の底で、大勢の加虐性愛の男たちに混じりながらも会話する事も無く、一人きり、悩んだり苦しんだりしていた気がいたします。何しろ親兄弟にも、友達にも、先生にも、誰に相談も出来ません。「地獄」と申しましたのも、時折、出所の知れぬ背徳感や罪悪感が渾然と押し寄せまして、まさに地獄に堕ちた罪人の心境と同じかと思われたからでございます。

周りの男たちにしても、この場所へ辿り着くくらいでございます。緊縛地獄ばかりではございません。熱蝋地獄に浣腸地獄、鞭打ち地獄や針地獄など、もうさまざまな地獄の責苦に泣き叫ぶ女を見慣れているはずですが、現世では「変態」と罵る声ばかりでございましたから、こちらに参りましても、おそらく己の不可思議な性癖の苦しさに疲れはてて、ただただ心の中を内省する日々なのでしょう。たまに聞こえてくるのは微かなため息ばかり、その切なさと云ったらございません。ですから私も、緊縛地獄の絶景に魅入りながらも、このままであるべきか、それとも改心すべきであるべきか、ただただ思案ばかりして過ごしていたのです。

ある時の事でございます。何気なく私が、少年時代の思い出に浸って居りますと、かつて通った教室の中に美しい女教師を見つけました。教室の天上から、一本の麻縄が黄金色に光りながら、ギリギリと川上ゆうさんを縛り、吊り下げているではございませんか。

「川上ゆう」と言えば、当代一の人気女優でございます。御姿の美しさは、今更私があれこれ語るまでもございますまい。長い年月第一線で、そして様々に細かい性の嗜好に応える彼女は、無数の男たちの想いを一身に受けて居ります。間違いなく“記憶に残る”女優として、いつまでも語り継がれる事でしょう。

本作品で使用されている画像の掲載場所
緊縛桟敷キネマ館