コラム「女教師 小野亜美」下

【女教師 小野亜美】

絶望的状況であっても、強気を保ち続けることは、若い性欲の餌食となる女教師の必要欠くべからざる要件である。
「あなたたち、何をしてるのか分かってるの?これは犯罪よ!」
彼女も子供でない。生徒達の血走った目と荒い息遣いから、これから何をされるのか、おおよその想像がついた。恐怖を打ち消すかのように彼女は強気に言葉を続ける。
「早く縄を解きなさい!今なら冗談で済ませてあげるから」
そんな女教師陵辱作品に定番の台詞が、聞こえてきそうな一枚だ。

体操マットが敷かれている事からして、場所は体育倉庫か。
彼女をこんな酷い目に合わせているのは4人(枚)の不良生徒たち。彼らは、ただただ理不尽に押し付けられた、「担任女教師」と「不良生徒」という上下関係に不満を感じ、抑圧された感情を、いつか彼女にぶつけてやろうと機会を窺っていたのだ。
不良生徒たちは、あらかじめ用意していた麻縄で彼女を縛り上げ、足下に転がした。

さて、多くの女教師陵辱作品で、彼女たちの緊縛姿を見ることが出来る。しかしその大半は、無力者(生徒)が権力者(女教師)の反撃を封じる単なる手段として描かれるのみだ。そもそも教室内に麻縄を持ち込む事自体が唐突であり、“道具”が麻縄でなければならぬ必然にいかに説得力を持たせるか、そこが作り手の腕の見せ処であるはずなのに…残念ながら、その点を上手く説明できている作品に出会う事は稀と言って良い。

実は、拘束が強固であることは、標的となった女教師の「強さ」を暗示している。丹念に何本もの麻縄で彼女を縛り上げていく程に、不良生徒たちの女教師に対する畏怖の大きさを表す。それはすなわち、物語全体を通じてヒロインが堕ちて行く高低差に他ならない。だから教室での、ガムテープや手錠等お手軽な拘束は、これから堕とそうとする女教師の価値を、最初からわざわざ下げている愚行と言えよう。

もっとも、そういった意味づけや、緊縛美を愛でる余裕など、 “革命”の渦中にいる不良生徒達にあろうはずが無い。彼らが、縛りに反抗を封じる以外の役割を持たせる場面は、もう少し後。つまり“革命”が成功し、女教師の強みが一転、弱みとなった現実を自身が受け入れ、観念した時だ。もはや、彼女を物理的に拘束する必要は無いのだから。

女教師、小川亜美の攻撃的で鋭い目線は、未だ状況を理解できず、あるいは受け入れられず、匣の中の支配者で在り続けようとする、強い意志を示している。ゆえに、彼女は縛られる必然があるのだ。
“堕落”を受け入れず、未だ高美であり続けようとする女教師の姿を、今しばらく楽しもう。

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コラム「女教師 小野亜美」中

【専制(センセイ)支配】

さて「大貧民」を、教室に当てはめてみる。
主な階級は、「担任女教師」「学級委員」「虐めっ子」「優等生」「人気者」「普通」「落ちこぼれ」「虐められっ子」「不良生徒」といったところだろうか。

「担任女教師」は、教室という密室空間の絶対的支配者であり、生徒の数に影響される事無く常に最上位である。場合によっては、プレーヤーの序列すら意のままにコントロール出来る。「学級委員」以下の生徒たちは、「担任女教師」を選んだり拒絶することは許されない。理不尽に割り振られた環境でも、そのルールには無条件で従う事が要求される。

知恵もつけ、腕力も大人と並びだすハイティーン以降はともかく、まだ、何の反抗する手段を持たない時期、初等教育段階での、担任女教師に対するある種の畏怖の念は、大なり小なり、皆が抱いたのではないか。昨今は、先生達も随分と俗物に成り下がってしまったようだが、“教師”という職業が、まだ聖職であった頃はなおさらだ。

だから、学校教育において教わる「民主主義的なるモノ」は、肝心の教室には存在しない。あるのは、逃げ道の無い専制支配のみである。担任女教師は、絶対的な権力者となり、まだ未熟である我々、生徒たちを指導して下さるのだ。

支配者に求めるには酷な事かもしれない。「担任女教師」には、教育の理想に燃えていて欲しい。精錬潔癖であって欲しい。聡明な女教師自身が、専制的指導に疑問を感じないのは、体制維持の為に彼女も洗脳されているに他ならないなのだが、それが独善的かつ強権的であればあるほど、「革命」物語は爽快なものとなる。それは射精時の快感と同じだ。
女教師陵辱モノの核心は、まさに高美からの“墜落”“堕落”と言えよう。

よく、犯されヒロインである女教師が、最初から「ショ太喰い」であったり、「痴女」であったりと、わざわざ俗物へと降ろして設定される作品を見かける。「なぜ彼女が犯されるのか?」という、貶める側の動機付けには、たいへん便利な性癖だが、これでは落差を稼げない。観るものが「革命」を共有し、その果実を味わう事が、端から出来ないのだ。
せっかくの女教師モノなのに、わざわざそういった“もったいない”設定の作品に出会うたびに、不満と共に怒りを感じるのは私だけではないはずだ。真面目に女教師モノに向き合うという事は、如何にヒロインを長く高美に保ったまま、辱め続けるか、それと正面から対決する作業と言える。先の安易な設定は、作り手の“手抜き”に他ならない

さて、私の手元に「不良」カードが4枚揃っている。
いつ「革命」を宣言しようか。「担任女教師」を淫獄の底へと引き摺り降ろそうか。

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コラム「女教師 小野亜美」上

【大貧民】

トランプゲームに、「大貧民」というのがある。
簡単に遊び方を説明すると。
プレーヤーは3人以上、5~6人が一般的とされている。手持ちのカードを場に切って行き、早く無くした方が勝ちというもの。カードの数字は、弱い順に3、4、5、…K、A、2が最強、と強弱が有り、当然、手札に強いカードを持つ者が有利なゲーム展開となる。
最初のゲームの勝者が「大富豪」、敗者は「大貧民」と階級分けされ、次のゲームの配札から最上位「大富豪」は好きなカードを、最下位「大貧民」は配札から一番強いカードを2枚交換する。第2位の階級と、最下位から2番目の階級との間でも、カードの交換が行われる事がある。従って、最初に「大富豪」となった勝者が、何ゲームも続けて「大富豪」となり、「大貧民」はいつまでも「大貧民」から抜け出せない。敗者にとっては、まさに無限地獄。近現代の資本主義社会をそのまま持ち込んだ、“良く出来た”ゲームと言えよう。

階級は通常、上から「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」で、人数によって、「平民」を増やすなり、階級を“増設”するなりして調整する。例えば9名で遊ぶ場合、「教皇」「皇帝」「大富豪」「富豪」「平民」「貧民」「大貧民」「奴隷」「家畜」等。階級が細分化されるのではなく、上はさらに上に、下はさらに下へと格差がどんどん広がっていくのが興味深い。

ゲームである以上、「家畜」が「教皇」へと昇る事は不可能ではないのだが、通常それは、よほどの運に恵まれる必要がある。「家畜」はいつまでも「家畜」であり続け、あるいは「奴隷」と「家畜」の最下層近辺を行き来し続けるわけで、毎ゲーム終わるたびに、上、中位のプレーヤーからの嘲笑や侮蔑の言葉を浴びる羽目になる。そして、それは階層が固定化するほどに、より過激で辛らつなものとなる。“遊び”であるが故に、いつのまにか人格まで否定されるような不条理でサディスティックな色合いを濃くしていくのだ。

そんな、理不尽なルールが支配するゲームであるが、「革命」という救済ルールが存在する。
同じ数字のカードを4枚揃えて出す事で、それまでの、カードの強弱が逆転する。「革命」は、現行ルールで優位にゲームを進めている序列上位のプレーヤーが行う動機が無いので、下位に位置する身分から宣言される事になる。当然、それまでが弱いカードでも、革命後は強くなるカードを残しているわけで、その後の展開は、それ以前とは真逆となる。支配者は瞬く間にゲームに敗北し、奴隷へと転落してしまうのだ。

革命カードが手札にあり、後は仕掛けるタイミングを計るばかりの「奴隷」や「家畜」の密やかな高揚感。そして「革命」が成就し、引き摺り下ろされた旧支配層が、つい先程まで理不尽に奴隷として見下げていた者に支配される痛快感。私はそれらに、女教師陵辱作品に含まれる、他の陵辱作品には無い特異な興奮、それと同質のものを感じるのだ。

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