結のストリップの舞台は見た事がない、しかし腹筋が割れている体から判断すると舞台ではそうとうに激しく舞っているのだろう、スケジュールは一年ほとんどうまっている、日本全国を10日サイクルでまわるようだ、これからの北国は外はシバレルが劇場は暖房とひといきでむれかえりその熱気のうちで激しく踊る結の姿を想像すると哀愁の旅に同行したくなる。
このように書けばとても活発なお嬢さんにみえるが、じっさい私の撮った画像からもとても勝ち気なようすに映っているが、仕事の場からはなれると人見知りのつよい少女のように変わる、外出着もまた少女の着るアンチックなひらひらドレスを愛用している、みる人がみれば「私はM女です、ホホホ」と看板をさげているようにみやぶるだろう。ーおもいおこせばこのような衣装の人椋楊二画伯の婦人、私のお会いした時はすでに50歳ほどで、このような少女の着るドレスとつばひろ帽子のいでたちであった、どっぷりM女のひとでしたー
だめでもともとと覚悟を決めてのぞんだ逆さ吊り水責めを美しく完璧な構図で撮らせてくれた時の感激は忘れられない、緊縛師の狩野千秋氏に逆さ吊りの構図と水槽に顔を浸し10秒で上げまた浸すを3回くりかえすように頼み本番にのぞむが私の滑車理論にまちがいがあり、水槽に浸けた頭が人の力では上がらない、水槽のなかでもがく結を助け上げ一度目は失敗、無理かと心しずむ私に「千秋さんならこんなの簡単よ」助け船を濡れ髪の結がすずしげにいう、事実このようね吊りを二人で劇場で公演していたらしい、そこで千秋氏の方法で再開、みごと顔は水に浸りもがく結は苦しげではあるが私の意図を完成させた悦びを水藻のようにからむ髪をからませた顔にみせていた。この撮影にはもうひとつ不可能と思われるシーンがある、鉄格子の外に鎖でウエストだけで逆海老吊りをした、全体重が背中にかかり鉄の鎖が食い込む、石抱き刑罰の背中版である、さすがの千秋氏もこれには脱帽の感嘆の声をはっしていた。
こうして書いているとものすごい女たちだとあらためて感心する

今日もどこかの劇場で舞姫は踊る

杉浦則夫緊縛桟敷 より原稿掲載

一期一会

SM誌や写真集を買うのはこの店と決めていた、おあつらえ向きに町外れの、おやじさんが一人でやっていた馴染みの店、どれどれと最新号(1979年4月)の巻頭グラビアを見てみる。
SMセレクト誌を定期購入し始めてからはや4年、23歳のときでした。
「危険な誕生日」というタイトルの、最初のページを見たとたん、心臓が止まりかける。
素早く反応した下半身の一部は、これまで経験したことのないくらいの硬さに。美人だ!それも、悪いがこの手の本には全く似つかわしくない、私好みの類まれな正真正銘の美人だ!
そんな美人が、これまた私好みの、ブラジャーが透けて見える、清楚な白いブラウス姿で縛られている。
すごい!ドキドキしながら次のページへ。

うっ!思わず腰が引ける。
なんなんだ、このヒモみたいないやらしい下着は。
きわどすぎる。

3枚目。
あうっ!さらに腰が引ける。
こんなふうに柱に縛りつけられては、相手のされるがまま、黒のガーター姿というだけでもたまらないのに、想像以上に胸も大きい、ホントに我慢できないかもしれない。

4ページ目。
あがっ!もう下半身は限界だ!
腰が引けすぎて、変な姿勢になっている。
こんなおいしそうな尻をこちら向けられたのでは、今にもズボンが破れてしまいそうだ!
5ページ。
ちらっとみただけで、いかん、これ以上の立ち見はホントに危ない、店先で暴発させてしまったら大変だ、すぐさまおじさんのところへ行って買うことにする。

このように高園たえ子(当時は伊吹葵)さんとの出会いは、本当に店先での下半身暴発の危険と隣り合わせの、それはそれは大変衝撃的なものでした。

数少ない資料によると、地方の旧家の娘さんで、一度付き合った男性に軽く縛られたのがきっかけとなり、緊縛に興味を持ち、セレクト誌に応募してきたという、素人のモデルさんとのこと。
本当にこんな美人がよくぞ、と今でも思います。

そしてなによりも、この時のセレクト誌の撮影以後は、全く姿を見せずにフェイドアウト、1回きりの緊縛写真撮影、まさしく一期一会の出会いだったモデルさんとして、ことさら強く印象に残っています。
同じように地方の大地主の娘さんで、時代劇で縛られ折檻される女郎の姿が忘れられず、体のうずきに負け、モデルとして応募してきた、という似たような経緯を持つお嬢さん、雨宮亜紀さんが、その後本物のモデルさんになって数多くのグラビアを残し、ビニ本や映画にまで出演したのとは、本当に好対照です。

初めての撮影なのに、きちんとそれなりの表情までつけることができているのには感心。
しかし、よく見てみると、途中下着姿になってからの後ろ手の縛りが、肘が直角90度から、両腕を下におろした楽な型になり、少々緊縛感が緩くなっていたりします。
そしてなんといっても、私も先生も大好物の「吊り」の写真が全くありません。
彼女は、かなり体が硬かったということもあるようですが、なんといっても緊縛写真撮影自体が初めて、素人の彼女には、それなりの限界があったことが伺えます。

しかし今振り返ってみても、まずたえ子さんが下半身につけていた、細いヒモのような黒い下着、胸につけた白いブラジャーとの対比でも、とにかくやたらときわどく、いやらしく、とてつもなくヒワイに見えて、これは一度見ただけで、忘れられるものではなかったです。
このヒモみたいな下着は、本人にとっても恥ずかしかったようですが、とにかく私も見たのはこのときが初めてで、印象は強烈。
まさかこんなエロい、いやらしい下着が、多少かたちは変わったとはいえ、Tバックと呼ばれて、ごくごく普通の女性も身につける日が来ようとは、夢にも思いませんでした。

グラビア5ページ目の写真は、私の緊縛写真のツボをつきまくりで、いかにもきつそうに括られた手首、二の腕に厳しく食い込む縄、上半身を厳しく縛める幾重もの縄、顔を畳につけ、お尻を高く突き出して、恥辱に耐えるかのような険しい表情。
本当に何度見てもたまりません。
この1枚の印象があまりにも強烈過ぎたせいか、かつての彼女とプレイに興じた最後は、必ずこのポーズでバックから決めてフィニッシュする、というのが、私の定番になってしまったくらいです。
この1枚については、次のセレクト誌5月号の「読者の声」欄で、ある方が「抜群の1枚」として褒めておられたので、当時から多くの方が、この1枚の素晴らしさに魅せられていたのは間違いありません。
残念なことに、先生の旧HPや現在の緊縛桟敷になって、旧未発表原稿として、たえ子さんの未発表画像が公開された時には、期待していたこのカットの前後の画像も、このカット自体も含まれていなかったのでした。

写真集で初出となった、同じ日に撮影されたと思われる、赤紫のTシャツに白のスカートの写真は、わずかですが公開されましたが、これも写真集にあった浣腸シーン関連のものが出てきてません。
さらに当時、SMセレクト誌に載っていた「撮影同行記」に書いてあった、撮影最後に撮られたという、赤ちゃんをだっこして、おしっこをさせているようなポーズというのもまだ公開されていません。
限界を知らない欲張りなファンは、決して来ないかもしれない、そのいつの日かを今日も夢見ています。

最後に、かねてからお尋ねしたかったこと、これまた「撮影同行記」にあった、柱に縛りつけられた葵さんの姿に興奮した杉浦先生が、写真を撮るのも忘れて、葵さんに皮をむいたバナナを、ペロペロといやらしく舐めるように食べさせようとした、というのは本当のことなのでしょうか。
想像するだけでワクワクしてしまいます。

マニア倶楽部11月号


「個人授業・持田茜」杉浦先生
写真に迫力があり、先生の作品は、いつも楽しみにしています。
横たわる茜さんの表情がいいですね。見とれてしまいます。
昔、素人の女性を撮った写真集が発売され、苦労話とともに、きれいな写真の数々が載っていて、何度見ても、飽きなかったのを覚えています。古本屋さんで先生の作品を見ると、その時代に帰るような想いです。
懐かしく拝見しています。

発売中 三和出版刊

投影 ~小林一美を求めて~ 振袖

第三章 、振袖

そういえば。

小林一美との衝撃的な出会いから少し後。中学のクラスの男子生徒の間で、エロ本(主に自販機本)の物々交換がちょっとした流行だった。校則を破り学校に持ち込んだ互いのエロ本を、一晩交換して楽しむというものだ。あくまで“等価交換”が条件で、“ブツ”を持たない者は他者のお宝を拝む事は出来ない、厳しいルールだった。なんらかの方法でエロ本を手に入れることの出来た奴が「大人」、そうでない奴が「子供」といった線引きをしていたのかもしれない。
私はその頃には、すでにSM雑誌のいくつかを手にしていたが、雑誌はその取引には向かないように思われた。手元に自販機本は一冊も無かったので、交換可能なものは「SM妖美写真集」のみとなる。

これぞ男の付き合いだ!見栄もある。
だがその犠牲として、ついに私の“秘蔵の書”は、悪友宅にお泊りさせられてしまうのだった。
「背に腹は変えられない」とはいえ、無事に戻ってくるかどうか、交換相手の退屈な自販機本をめくりながら、不安な夜をすごしたわけだが、翌朝同級生の「妖美」評は散々なものであった。
「全然“いやらしく”なかった」「何が良いのか分からない」
そうだよね。オレもどうかとは思ったけど、一応、裸の写真もあるし…と、必死でその場を取り繕う。
卑屈である。

二度と、決して、自身の嗜好を他人に明かさないと、強く心に誓った。

話を戻す。

当時は今と違い、成人向けの書籍といってもゾーニングされているわけでも、ビニール袋に入れられているわけでもなく、本屋で中身を自由に確認する事が出来た。そのおかげで、「妖美」の表紙を飾った「花筐」の白い和服とは別衣装の小林一美の存在を知った。同時にSM雑誌なるものを初めて手にする事になる。

朱色の振袖は、彼女が未成年であることを知らせている。SMファン昭和55年3月号の裏表紙、正座姿で縛られた彼女には、「恋虐の装い」というタイトルが付けられていた。
「白」着物以外の小林一美を発見!
それだけで、購入は決まった。写真集よりは格段に安価であったので、代金調達の為の親への嘘も小さなもので済んだ。

華やかな衣装。キラキラと輝いていた。
だが、私にとってそれは、小林一美が着ているからこその、である。長い袂の下にのぞき見える白足袋だけでも、充分にエロスを感じる事が出来た。やがて、徐々にその美しく隙の無い着付けが、自在に形を変え這い回る麻縄によって淫されていく。
祝いの、喜びの場でのみ着る事が許される晴れ着。だからこそ、無慈悲に剥ぎ取られた時の彼女の悲しみは、大きかったことだろう。そんな悲哀を覆い隠し、きつく抱きしめるように掛けられた麻縄だけが、彼女の救いに見える。

親が洋服ばかりだったので、私には和服そのものが「非日常」であった。見慣れぬ衣装は、秘密の嗜好にあふれた世界へ、侵入する為の“装置”となっている。
印刷された淫靡へ跳ぶ事が出来れば、あとは彼女を包んだ美しい布を、一枚一枚じっくりと脱がしていけば良い。遠慮はしない。そこではもはや、和服は特別なものではなく、縄を引き立てる、ただそれだけの役割なのだから。
彼女の柔肌が露出するほどに「非日常」が「日常」へと降りてくる。
その幻想の隙間で、私は小林一美と戯れるのだ。麻縄によって自由を奪われた彼女に、それを拒む事は出来ない。

和服緊縛としては、この他に、黄色の着物「縄花一輪」がある。
比較的早い時期、別タイトルのモノクロ作品に、「白」でも「朱」でもない、別な和服を発見した。だが、その色が黄色であったと判るのは、古本屋巡りが始まる高校時代を待たねばならない。
なぜなら、「縄花」は54年別冊SMファン12月号に掲載されたもので、年が明け、小林一美という女を知った時には、すでになじみの本屋で求める事は適わなかったからである。

わたしの独断

平沢が引退してはや2年ほどたちました、今はコンサルタント会社に勤務しているとのことです、先日相談事があると上野の焼肉店によばれる、慣れない業務に疲れた様子でしたが食欲は旺盛でもりもり食べていた、線の細い子ですから離れていると体の調子をふときずかうことがある。
ピンク映画に出演した年度の新人女優賞、わがサイトの最多出演、20歳から26歳までの肉体の変化と平沢里菜子のモデルとしてのアプローチのありかたそのあたりを撮り込んだと思う。
私とタレントとの接し方は初回は綺麗な人だなと思うぐらいでさはど深くはない、しかし平沢は2回目の撮影で乳首をはさんだクリップで乳頭を落とさんばかりの深い傷をおい苦痛に顔を歪めながらもあわてふためくスタッフに逆さ吊りの状態で撮影の続行を指示していた。3回目は昨夜の雨で庭には水たまりが残っているなかで高て小手に縛られた旧家の令嬢の里菜子の美しい顔を泥まみれに陵辱しようと「泥水を飲め」と指示をだしたところ本当に舌を出してペロリペロリと飲み始めた時には指示をだした私は素直さに驚き、これほどまでに深く役に入り込む里菜子に深く感謝した。
その後2.3度打ち合わせなどで話すおりに、わたしは仕事で指示されたことにできませんということがくやしくていえない、そんなことをいうようならばこの仕事をやめたほうがいいといつもにもなく声をたかくしていう。それはその後の濡木痴夢男氏との撮影のおりにぎっちりと高て小手に縛られて柱に開脚中吊りをした時、私はかなり変形の開脚を要求したと思う、体重がすべて腕にかかり里菜子は悲鳴をあげた、「私の指示がまちがいだ、やめよう危険だ」というと「駄目もう一度挑戦する」ときかない、こちらはおそるおそる再度試みると里菜子は体のバランスをうまくつくりまさに私のイメージどうりの緊縛美を見せてくれた。その後もこの姿勢は変わらなかった。

杉浦則夫緊縛桟敷 より原稿掲載